自分の学びの原点である日立入社後の学びについて
日進市で、主に日進西中学校の生徒を中心に、生徒みずから主体性を持って学び、自分のペースで勉強できる、ICTを活用した自立学習による学びの場を提供している、セルモ日進西小学校前教室 塾長の西尾です。
自分の経歴についてネットで質問いただいたので、こちらで改めてまとめてみました。
目次
自分の学びの原点である日立入社後の学びについて
私の学歴は、工業高校卒です。
ただ、高卒で入社した日立製作所に、とっても素敵な制度である社内の専門学校があり、そこへの入学に向けた学びや、合格後の学び、更に、トップ15人だけが許される国内大学の研究室へ研究員としての出向できる制度を使っての学び、この期間の学びの経験が、今の塾での指導の基礎となっています。
その、東大での研究員としての経歴を、HPで「東大留学」という表現を使ったり、「東大(研究生)」という表現を使っていたら、東大に試験を受けて入学したわけでも、卒業したわけでもないのに、その表現は誇張しすぎではないか?という指摘をいただきました。
他に、高卒で日立やマイクロソフトって正社員じゃなくて派遣とか下請けなんじゃないの?というニュアンスの質問も。
いい機会なので、こちらで簡単にまとめてみました。
1981~1984年 【工業高校への進学と、パソコンとの出会い】
中学で高校を選ぶときに既に大学に行く気がさらさらなく、そもそも高いお金を払って勉強するっていうのは必要なのか?と考え、工業高校から大手企業に就職する方がよほどいい会社に入れるし、高卒とはいえそれなりの給料はもらえるだろうという、非常に打算的な考えで愛知県のトップの東山工業高校に進学を決意します。
高校2年の時に当時発売されていた NEC の PC-8001に出会いました。
このパソコンとの出会いが私の人生を変えたと思っています。
当時母に無理を言って、「大学に行かないんだからその分、今パソコンに出資してくれ」とお願いし、1セット30万近くしたパソコンを無理やり購入してもらいました。
購入してもらった後も、やることは結局ゲームだけ。(笑)
もちろん簡単なプログラミングなんかはできるようになりましたから、パソコンがもつ可能性といったものは感じていたと思います。
1984年 【日立への就職】
就職を決める高校3年生の一学期、 クラスの成績は7番目と決して高いところにいたわけではありませんでしたが、それでも日立製作所という超大手企業に入社することができました。
ちなみに当時のトップは、トヨタ中央研究所に行きましたし、他にも同期はデンソーや富士通、日立といった大企業に就職しています 。
日立には営業として入社しました。
本来、日立の営業は、技術については専門の技術部隊に任せるべきとの考えで、営業マンは全くと言っていいほどコンピュータのことを知らなかったですね。
自分は、高校時代のパソコンのお陰で、かなり技術的には詳しくなっていたものの、もっと勉強したいとおもうようになりました。
その時、日立社内には高卒を対象とした社内の専門学校があり、そこに合格すれば、給料をもらいながら1年と3か月間、全寮制の場所で思う存分勉強ができ、そしてそこでの成績優秀者には、さらにもう一年大学に送ってもらえるという制度があることを知ります。
もちろん卒業した暁には大卒扱いとなり給与も昇進も大きく変わるとのことで、それなら挑戦するしかないと目の前のエサに食いつき、社内の学校への合格を目指すことを決意します。
1985~1986年【給与を上げるため、日立社内の専門学校に挑戦】
入試に挑戦する決意をしたものの、最初の年は、入試をナメていて、ノー勉で挑んで撃沈!(笑)
特に数学と物理は、大学入試並みの難易度で、工業高校のカリキュラムにないものも数多くあり、過去問をみて、大卒の先輩にどうやって解くのと聞いたりしながら、約1年間独学で勉強を続け、なんとか合格することができました。
この1年は、人生で一番勉強した1年です。
平日は夜まで仕事だったので、勉強は週末の土日だけ、彼女(今の奥さん)に付き合ってもらって週末は全部図書館で過ごしました。
はっきりとした目標があれば、こんな1年の過ごし方ができるんだと、この1年の頑張りから学びました。
中学、高校と受験勉強などまともにしたことがなかった自分ですが、給料や昇進という「エサ」をぶら下げられると、人間頑張れるものですね。(笑)
1986~1987年【日立京浜工業専門学院(日立社内の学校)での学び】
頑張って合格した日立京浜工業専門学院は、横浜の全寮制の学校です。(ただし、法律でいう一条校ではないので学院と名乗っています)
ここで、1年3か月間と決して長くはないものの、1日4コマ(土曜は2コマ)が全て強制的に埋まっているカリキュラムで、給与をもらいながら(仕事として)学びました。
その勉強量は4年生大学に匹敵するほど中身が濃かったです 。
講師の先生方も、近くの横浜国大や東京都立大などからわざわざきてもらって、講義をしてもらうなど、大学の授業の雰囲気を味わうことができました。
また専門は情報処理で当時プログラム言語はCOBOL,Fortran,BASIC,Pascal,LISP,C,アセンブラ等々 7~8言語は学んでいたと思います。
おかげで、情報処理は2種に加え、SEでも合格の難しい1種(今の応用情報技術者)まで持っています。
また当時は勉強がとても楽しく、授業を聞いていればそれなりに理解もできたので、同期がテスト前に徹夜する勢いでテスト勉強していたのを尻目に、余裕で早寝して、それでも、全教科90点越えで学年トップでした!
過去、中学、高校でトップなど取ったことがなかった自分にとって、勉強で1番になるってこういうものかと、ものすごく自信につながったことを覚えています。
この時に、数学や物理、化学などの大学レベルの授業を理解することができたので、今、高校生への指導に役立っていますね。
1987~1988年【受託研究員として東京大学へ】
同期240人中のトップ15人が国内の一流大学に研究員という形で1年間の学びの機会をもらえます。
派遣先は、東大、東工大、横浜国立大、筑波大などの国公立の大学の研究室です。
日立京浜工業専門学院での学びの延長で、大学に送られる我々は、学院内では研究生と呼ばれていました。
実際、多くの生徒が、大学4年生~M1~M2ぐらいの年齢で、私の場合は、M1(修士1年生)と同い年だったので、身分としては研究員という偉そうな名前ですが、学生と同じ研究生とよばれていましたね。
こちらは、東大から日立の社長宛に届いた、私を研究員として受け入れることの通知と、その研究費として30万円を払ってねという書類です。
当時の上司が、合格の記念にと私にくれたものですが、幸運にも捨てられずに残っていました。
東大では大型計算機センターと言う日立のスパコンや大型計算機がぎっしり並んでいる、ある意味日本のコンピュータ分野のトップの研究室で1年間過ごしました。
そしてそこで出会ったのが日本のインターネットの父 石田晴久先生と村井純先生です。
2013年、世界のインターネット協会に二人そろって殿堂入りしています。
そんな二人と、1年間一緒の研究室にいられたことは大きな財産でした。
石田先生、村井先生の頭の中には、30年後の今のインターネットの姿が想像できていたのではないかと思うぐらい、二人とも未来を予測してましたね。
自分が派遣されていたときの東大大型計算機センターの年報です。
こちらに、1年間の研究成果として、レポートを掲載いただきました。
当時はレーザープリンタが百万円以上する効果なものだったので、どこにでもあるFAXを東大のUNIXマシンのレーザプリタ代わりに使えるようにと作ったものです。
日立~マイクロソフト~独立へ
1989~2000年【日立がつまらなくなり、転職先探し~マイクロソフトへ】
最高に刺激的な1年間を過ごした後、何事もなかったかのように営業の現場に戻った自分は、そのギャップにかなり悩むことに。
営業に戻った後10年の間に、静岡支店、中部支社、そして社内公募で東京の本社も経験しましたが、 モヤモヤは晴れることはなかったです。
そんな時、名古屋の日立の後輩からマイクロソフトの名古屋営業所で人を探しているらしいけど応募してみる? と声がかかり 所長や役員と簡単な面接をして即採用となりました。
当時マイクロソフトでは企業向けの業務を拡大しており、早急に人が欲しかったようで、タイミング的にも運がよかったようです。
2000~2007年【最高にエキサイトな職場だったマイクロソフト】
マイクロソフトには、入社後すぐに自分の目で本社を見に行くべきという文化があり、早速、イチローの入団が発表された直後のシアトルへ一週間ほど本社の見学と研修に行きました。
キャンパスと言われるその本社は本当にデカく、端から端まで地下鉄一駅ぶんぐらいありますね。キャンパス中には無料のシャトルバスが走っているほどです。
自分の目で本社を見た後は、自分の言葉で本社とマイクロソフトのビジョンの素晴らしさを語れるようになるので、大切な商談では、本社訪問というカードを使って、何度かお客様を連れて本社を訪れました。
そしてそのたび毎にマリナーズのイチローの試合を見に行きましたね。
初めて見た時はイチローのメジャー第2号のホームランを目の前で見ることができました。
あと マイクロソフト はセーフコフィールドに VIP ルームを持っているので、そこで試合を見たのもいい思い出です。
年に一度の期初のキックオフミーティングには世界中から約1/3の社員(7~8万人)が一同に集まり、そこでライブのような会場でハイテンションの中、1年の計画を聞くことになります。
キックオフミーティングで、当時のマイクロソフトCEOのスティーブ・バルマーとの2ショットです。
自分がフロリダのキックオフミーティングに行った時は、夜のパーティーではユニバーサルスタジオフロリダを貸し切ってましたね(笑)
仕事面では、バリバリ日本企業の日立とは真逆の文化でした。
日本の企業だと会社の本当の目標の前に組織が生き残るための目標があったり、組織や役職のパワーゲームがあったりと、うんざりすることが多かったです。
その点、マイクロソフトでは、個人や組織がお客様の課題解決のために一致団結して協力すると言う当たり前のことが当たり前にできていてとても働きやすかったです。
もちろん、 評価は数字が命です。ただ数字がおもわしくない時も、何が足りないのか、どうすればいいのかを、上司も真剣に一緒になって考えてくれます。
日本企業が精神論で何とかしようとしている時、 マイクロソフトなどグローバル企業はきちんと数字から 積み上げた、論理的な考え方で改善を図ろうとしていましたね。
当時の名刺がこちら(これも、1枚だけ残っていました・・・)
Microsoftでの勤続5周年の記念品です。
2007~2012年【肩をたたかれ続けた日々~独立を決意】
営業としては、お客様の懐に入り込み、課題を聞き出し、解決策を提案をするというところまでは得意としていたものの、営業に一番大切な数字を達成するというところが苦手だった自分は、ついに、戦力外通告を受け、社内の他部署に異動できるようチャレンジするか、退職するかを迫られることに。
社内の人脈を使って内部で残ることも挑戦しつつ、 エージェントを使って 有利な条件での転職 のチャレンジも並行して行いました。
結果、社内異動のOKも出たのですが、これ以上は難しいと考え、マイクロソフトとほぼ同条件でのオファーを頂いた会社へ、転職しました。
しかし、転職後、1年ちょっとでリーマンショックがあり、自分のような、外部から来た高給取りは真っ先にリストラの対象に・・・
辞めても、なんとかなるだろうと、たかをくくっていたら、リーマンショックの影響は大きく、半年ほどは職安に通って失業手当をもらう厳しい日々でした。
なんとか良い転職エージェントと出会い、通信機器メーカーに転職できたものの、そこでもやはり数字を作れない営業は厳しく、ストレスも大きかったので、転職先を探していた時に、3.11の東日本大震災が起きました。
この震災で、価値観が180度変わった気がします。
これまでは大企業でビジネスを拡大することが世の中のためだと考えていましたが、自然の前には何も役に立たないのだと実感したのです。
自分が本当にやりたいことに向き合いたいと考えた末に出した答えが、「経験から学んだことを惜しみなく伝えることで、誰かの役に立ちたい」ということ。まずは地域の子どもたちに伝えていこうと、学習塾を開くことを決めました。
こんないろいろな経験をしてきた自分だからこそ伝えられる「なにか」があると思っています。
その「なにか」は、もしかしたら受け取る一人一人で違うかも。
そんな「なにか」を伝えられる塾でありたいと思っています。
最後に、一言。
皆さん、趣味は持っていますか?
私は、トランペットを小学生のころからずっと吹いていて、今でも、2つの市民吹奏楽団に所属し、年に数回の演奏会本番を経験しています。
さらに、ゴスペルも歌っていますし、英語で歌うカラオケも大好きですし、英会話教室にも通っています。
塾の仕事一筋もいいですが、どうしても視野が狭くなりがちです。
複数のコミュニティに所属することで、いろいろなものが見えてきますし、多種多様な人脈もできます。
なにより、人生を楽しんでいない大人は、子供から見て「つまらない」って思われますからね。
ぜひ、保護者の方々も、家族と職場、ママ友以外の方々に出会える「なにか」を今年ははじめてみませんか?
保護者の方々が、趣味などで輝き始めると、お子さんたちも変わってきますよ!
こんな私ですが、今後ともよろしくお願いいたします。
セルモ日進西小学校前教室
塾長 西尾信章
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どうぞ、体験授業でお確かめください。